生化学工業の底流を流れる「学問尊重」(研究開発重視)の考え方は、生化学工業の生い立ちと密接にかかわっています。

1.産学協同の推進と学問発展への貢献

当時の自社試薬
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当時の自社試薬

学者を尊敬し、日本の学問の振興と発展に貢献した渋沢敬三氏。水谷、そして生化学工業は、そうした渋沢氏の姿勢から大きな影響を受けました。それは、経営信条の筆頭に「学問尊重」という言葉が掲げられていることからも明白です。
 

江上博士のアイデアからコンドロイチン硫酸の企業化に成功し、新たな道を歩み始めた生化学工業は、「生化学という新しい学問を基礎研究から育てていくことで新製品を開発し、人類福祉に貢献する」ことを一貫して目指してきました。
 

「私は、他社が開発したものの二番煎じではなくて、オリジナルなものを作ろうという気持ちが強いので、どうしても基礎研究が大事であり、産学協同でやるしかないとずっと思ってきました。少しでも利益が出ると、そのお金を産学協同のために使ってきました。」(水谷談)
 

昭和35(1960)年には試薬部門を新設し、研究者の要請に応え、さまざまな試薬を開発・販売しました。さらに、優れた試薬を世界中から導入し扱い品目を増やし、研究者の高度な要求にも即応できる体制を作りました。とくに、スウェーデンから初めて導入した分離分画剤「セファデックス」は著名です。試薬は生化学工業の知名度を上げるとともに、国内外の幅広い研究者とのネットワークを築き、それを通じ世界の最先端情報を得る役割も果たしたのです。

2.研究者支援とネットワークの形成

光輪閣シンポジウム
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光輪閣シンポジウム

「学問尊重」の理念を反映した最初の本格的な取り組みは、昭和32(1957)年に江上不二夫博士らが組織した「ムコ多糖体研究会」から始まりました。研究会は、糖質科学の発展を支援する目的で、生化学工業と科研薬化工(当時)が共同で研究助成を行いました。この研究会は、糖質科学分野での国内の研究者の交流の礎となり、後には結合組織学会や多くの国の研究班に発展し、さまざまな研究成果が生み出されています。
 

また、昭和42(1967)年8月には、大学の研究者らの企画により、生化学工業が資金を援助して、ムコ多糖物質(グリコサミノグリカン)に関する国際的なシンポジウム「光輪閣シンポジウム」が開催されました。この時は、国内73名、海外42名の研究者の参加を得て、活発な研究発表と討論とが行われました。

続いて、昭和56(1981)年9月には、生化学工業の主催で「プロテオグリカン・ミーティング」を開催。この時は、内外のプロテオグリカンの研究者約50名を招き、箱根で3泊4日の日程で行われています。こうしたあらゆる機会を通じて、生化学工業は研究者を支援し、資金を提供してきました。
 

さらに、昭和63(1988)年には、生化学工業の寄付金をもとにして、愛知医科大学に分子医科学研究所が設立され、その後長年に渡り、研究費を援助するとともに、数名の研究員を出向させていました。こうした豊富な研究者人脈が、生化学工業の研究開発にとって最先端の情報源となり、そこから得られる研究成果が、次なる新しい事業、製品を生み出す基盤となっているのです。
 

そして、株式店頭公開を実現した平成元(1989)年、社長を退いた水谷は、その3年後、私財を投じて「水谷糖質科学振興財団」を設立しました。この財団設立は、それまで水谷が実践してきた「学問尊重」の理念を集大成させたものといえます。水谷と生化学工業が追究してきた糖質科学への情熱は今でも生化学工業に脈々と受け継がれています。