成長を可能にした企業には、必ずその成長を可能にした原体験ともいうべき「成功体験」があります。生化学工業の場合、コンドロイチン硫酸の世界に先駆けた工業化の成功と、ヒアルロン酸製剤「アルツ」「オペガン」開発の成功でした。
今でこそ注目を集めている複合糖質ですが、その構造や機能が本当に理解されるようになったのは1970年代以降のことです。生化学工業がコンドロイチン硫酸の工業化に取り組み始めた時期は、研究用の分析機器もなく、研究者の数も限られ、複合糖質の科学的な研究はほとんど進んでいませんでした。一部を除くと、糖質研究の取り組みは世界にも例がなく、生化学工業は自らパイオニアとして道を拓いていかざるを得ませんでした。その最初の記念碑的製品がコンドロイチン硫酸でした。
多くの関係者の証言から浮かび上がってくる初期の開発風景は、まさに身を挺した製造プロセスの積み上げでした。手で触り、目で見ることによって鮫の軟骨が処理され、有効成分が抽出される。その時の経験が今も、生化学工業の基盤を支えているのです。
コンドロイチン硫酸の世界初の工業化に成功したのは、昭和25(1950)年。これを原体として、中西武商店の「古志源」をはじめ、「ナトリン」「タウリンコーセイ」「セレブリン」など、さまざまなコンドロイチン硫酸製剤の販売が始められました。昭和30(1955)年には、提携先の科研薬販売(現科研製薬)が製造した「ゼリア錠」が大ヒットしました。
そして、生化学工業のバルク生産は軌道に乗り、売上高が一気に倍増、それまでの累損を一掃し、名実共に自立した企業として歩み始めることとなったのです。社名も「興生水産」から「生化学研究所」、さらに「生化学工業」と変わり、生化学分野の研究に重点を置く医薬品製造会社として、確実に成長し始めたのです。
「ゼリア錠は、科研薬販売さんが全社をあげて作り上げた製品で、販売にも努力を傾注し、広告も本格的に行ってくれた結果、世間でも評判になりました。コンドロイチン硫酸から、こういう素晴らしい製品ができたおかげで私は、当社の将来に対して大きな夢を持つことができたのです。」(水谷談)
生化学工業の成長を語るために特筆すべきもうひとつの製品が、ヒアルロン酸製剤の「アルツ」と「オペガン」です。これらは、およそ15年間にわたる研究開発期間を経て、昭和62(1987)年に最終製剤として世の中に送り出したものです。とくに、関節機能改善剤「アルツ」は、画期的な新薬として米国をはじめとした海外でも使用されています。
ヒアルロン酸の研究開発を始めた頃、生化学工業は売上高15億円弱、利益は1億円余に過ぎませんでした。しかし、当時社長を務めていた水谷は、あくまで独創的な新薬開発にこだわりました。
「アルツ~{®}」
すでに生化学工業は、医薬品原体と研究用試薬を扱う会社として、多少知られるようになっていましたが、この2つの事業だけでは、将来の発展には限界がありました。糖質の未知の可能性を追究し、医薬品の最終製剤化に挑戦することは、水谷の長年の夢でした。その夢を現実のものとしたのがヒアルロン酸だったのです。
この扱いにくい物質を関節炎治療用の注射剤に仕上げることは、当時無謀ともいえました。その挑戦への決断を支えたのは「うちがやらなければどこがやる」という糖質のパイオニアとしての強烈な自負と、長年の地道な基礎研究の成果、さらには製造現場で磨き上げられた生体成分を抽出・精製する独自の技術やノウハウの実績からくる自信でした。
「開発の途中ではいろいろなことがあって、必ずしも順調ではありませんでした。でも、私は、どんなことがあってもこのプロジェクトは止めないつもりでしたし、あの時は命がけでやりました。」(水谷談)
試行錯誤を繰り返し、15年の歳月が過ぎました。そしてついに、全社一丸となった努力が報われる時が来たのです。昭和62(1987)年、生化学工業は同じヒアルロン酸製剤である眼科手術補助剤「オペガン」と並んで「アルツ」を発売しました。「アルツ」の売上は急増し、数年後には医薬品の売上として上位に入る大型製品となり、生化学工業は製剤メーカーとしての地位を不動のものとしたのです。